司会 旭川市管工事業協同組合 理事長 落合 實
(株)成田工業所 代表取締役 成田 満
(株)田下工業所 代表取締役 浦 忠治
(株)サカイ工務所 代表取締役会長 酒井 照子
(株)大協 代表取締役 佐藤 義孝
(株)北岸工業 代表取締役 北岸 晃
旭川市管工事業協同組合 常務理事 安田 武司
落合 實 成田 満 酒井 照子 佐藤 義孝 北岸 晃 安田 武司
「創立50周年を振り返って」
落合 旭川市の水道の歴史は、大正2年に完成した軍用水道が、終戦後一時占領軍の配下となり、昭和23年8月旭川市に引き継がれたのが始まりで、平成10年8月に50周年を迎えたものです。一方、旭川市独自の水道の始まりは、昭和25年から第1期拡張工事が始まり、昭和27年から給水を開始したのですから、当組合も旭川市の水道事業とほぼ一緒に50年を歩み、今日に至っているのではないかと思います。ところで、旭川市の水道の歴史を語る時、軍用水道について若干触れたいと思いますが。
安田 旭川に明治31年鉄道が敷かれ、明治34年に札幌から第7師団が旭川に移駐されましたが、明治42年にチフスが発生したことにより急きょ水道が必要となりました。その給水範囲は隊内並びに官舎で給水人口は11,400人、馬1,400頭が対象でした。これは東鷹栖1線10号、今の石狩川浄水場の場所で石狩川の表流水を引き込み、給水人口最大30,000人、1日最大給水量3,300m3とした施設で沈砂池を造り、それから春光6区のポンプ室まで木管500mm、3,000mを自然流下でもっていったものです。
落合 浄水方法についてはどうしたのですか。
安田 6区のポンプ室より口径200mmで今の旭川実業高校の横、春光台に揚げ緩速濾過方式で浄化され、塩素注入後、隊内に給水されました。当時で施設建設費が45万円と記されています。その後は、軍の施設ですから終戦後は一時占領軍の配下となりましたが、昭和23年8月、正式に旭川市に移管され、その日から50年目が平成10年8月で、旭川市水道事業の50周年目です。春光台の旭川実業高校横に軍用水道碑が建立されております。
酒井 旭川市水道事業の50周年式典は何年に行われたのですか。
安田 水道事業の50周年は式典はなかったと思いますが、平成10年8月が50年目と位置付けております。これは、軍用水道の施設が市に引き継がれた年から50年ということです。
北岸 私が覚えているのは水道部が今の青少年科学館のところにあって、私の父親が北華建設の名で常盤町に事務所を構えていたのでよく覚えています。
安田 私が市水道部に入った昭和33年、その職場が青少年科学館のところでしたから良く覚えています。その後、上常盤町2丁目のロバ菓子工場近くの職訓の跡に事務所が移転されました。
北岸 そのことは、成田さん、落合さんも、もちろん知っていると思います。
酒井 私は、昭和28年、酒井組に嫁いできたので当時のことはよく覚えています。給水開始当時、旭川の水道が昭和27年から給水が始まったときは、市の直営部隊が施工に携わったと聞いていますが、市の職員ですよね。しかし、土工さんがいないため、民間に土工さんを頼んだと聞いています。
浦 昭和28年になって市が主催で第1回の技能者競技会を開催したようですが、その目的は、またその競技会は40回迄続いたようですね。
落合 昭和28年に市は市内のポンプ業者6社を指定していたようです。
佐藤 指定したといっても水道に対する技術は全く無かったのでしょう。
成田 それはないと思いますね。地下水のポンプと水道は全く違いますからね。
落合 昭和27年から直営部隊で給水工事を始めたようですが、施工件数が限られてましたね。一方で地下水が悪くなり給水要望も増え、急きょ昭和28年に技能者競技会を開き、施工技術を身に付けさせたということですね。
北岸 その昭和28年の第l回の技能者競技会は参加者も5人程度ではなかったかと聞きましたが、それで、昭和27年からの給水は直営で対応したと聞いていますが、全部直営ですか。
成田 いや、掘削関係は土工さんを頼んだと聞いています。しかし、土工さんを頼んだとしても、件数的には限られるでしょう。それで急きょ指定したのが6社で、翌28年の第1回の技能者競技会を開き、施工技術を身に付けさせたというのが競技会の始まりのようです。
佐藤 技能の技術を磨いてから水道の仕事をしたということですか。
成田 そういうことになりますね。
酒井 成田さんは、昭和28年当時の第1回技能者競技会に出技していたのでしょうか。
成田 いないと思いますね。もし、第1回の競技会に参加しているとしたら先代の父親が出ていたか、初めは指名を受けていないから、田下さんの名前を借りて2年~3年、工事をしていたと思いますね。
安田 昭和28年から技能競技会、第1回を開催したと言うことは、水道に対する技術を業者に覚えてほし狙いだったんでしょうね。
落合 初めは良く本管の穿孔を失敗してね、本管の穿孔に携わる人はよく現場に勉強に行きましたね。穿孔も役所が指導していたのですが、現場での穿孔には監督がついて教えるのですけど、慣れる迄失敗するんです。サドルがついていれば失敗しないのですが、もろにドリルで穴を開け、ねじを切るので失敗も多かったですね。当時は立もみでしたからね。固定するチェーンが緩んだら穿孔が難しく軸がずれて水がもれ、水に潜って作業した思い出がありますね。
浦 今の本管は鋳鉄管、塩ビ管ですが、当時の管種は鉄管でそれにサドルなしで分水捻子を切っていたのですね。
佐藤 話しは変わるけど、技能者競技会は何年、何回頃から盛んになったのですか。
安田 昭和45年の15回日頃から多くの出技者が参加するようになったようです。平成4年までの40回、この技能者競技会が続いたと言うのは、旭川の給水工事に対する技術、技能、施工技術の研鑽の場となったのでしょう。多くの方が出場して、皆んなが競ったことが技術の向上につながってきたと思います。
落合 私は、昭和29年、この競技会に出ましたね。
安田 競技会を開催することによって先輩から後輩に施工技術を教える場ができたのでしょう。旭川の水道技術のレベルは全道的にも優秀であったと思います。旭川の技能者競技大会とは別に、全道の水道局の技能者大会も開催されていて、初めは旭川市水道局職員が優勝か常に上位で、その後は、参加する職員がいなく業界から参加しましたが、これも常に上位を占めておりました。
「旭川市の独自の水道施設」
落合 軍用水道が旭川市に移管された後ですが、旭川は川の街といわれるだけ地下水は良好であったようですが昭和24年、25年頃、市街化が進み地下水も汚染され、特に新旭川地区が飲用不適でひどかったようですね。
北岸 この頃が旭川市独自の水道施設をつくるため第1期拡張工事に取り組んだのですね。
安田 その施設が東神楽浄水場で、旭川市が第1期拡張工事で独自に取り組んだ施設です。
浦 昭和27年から給水を始めたのは、その地下水悪化のひどい新旭川地区ですか。
酒井 その地区はパルプ廃液の影響も多分にあったのでしょうね。
成田 そうですね。当時、新旭川地区に共用栓というのですが、外に共用する水道で各戸に給水するお金もなかった時代ですから、町内で何本か設置する鍵も班長さんが預かっていたようです。そうですね、町内に2ヵ所くらい設置されていたかね。
安田 一戸一戸各家庭に給水するお金が無かったのでしょう。昭和27年東神楽浄水場から、幹線600mmで大正橋を経由、境橋を300mmで越え新旭川に入るまで新旭川地区では一時パルプより給水を受けてました。パルプの水道は昭和24年にできていますから。
佐藤 昭和26年仮給水を受けたということですか。
成田 また、一時は、馬車で水を運んだという話しもありますね、共用栓が設置されるまでは。
北岸 指定業者が当初6社から10社程度で長く続いたように聞いておりますが。何年くらい続いたのですか。
成田 そういえば当時、10社会というのがありました、かなり長い間続いたと思います。
安田 組合設立当時の6社から8社、10社で昭和48年迄続いたと思います。排水設備の業者が組合に加盟されたのが昭和48年ですから、17年程続いたわけですね。
浦 ところで、組合事務所はどこにあったのですか。
落合 昭和47年に組合が大明建設さんに移されたのですから、それ以前は村田工業所さんにあったのですね。組合名称は水道業者協同組合ですね。
佐藤 現在の管工事業協同組合の名称は昭和56年に変更されておりますから、それまでは水道業者協同組合ですね。
落合 いずれにしても組合事務所が常盤町に移ったのは昭和54年ですから、約10年近く大明建設さんに事務所をおいていたことになりますね。
落合 当時の給水装置についての話しに移りたいと思います。当時の給水栓は水工式、菱刈式、旭光式の貯留式でE型給水栓などは、かなり後半の給水栓だと思います。また、当時は耐寒止水栓も使用されていましたね。
酒井 一方で給水管の材質については、どのような管種が使用されていたのですか。
成田 当時の給水管については、軍の施設は鉛管が主流でしたからね。そのほか鋼管、鋼管、セロ管、塩ビ管で給水開始当時の新旭川地区では鋼管、セロ管が使用されていましたね。
安田 塩ビ管といっても熱間工法ですから、接続にも施工技術が必要で、給水栓、止水栓、メータの接続前後には、冷間工法になるまでは銅管を使用していました。
浦 ところで熱間工法からTS工法になったのは、何年頃でしょうか。
成田 昭和40年頃迄熱間工法が採用されていたと思います。この熱間工法の廃止と同時に、銅管も廃止されたと思います。
北岸 当時の給水管は銅管、鉛管、鋼管などいろいろの管種がありましたからね、修繕に携わる配管工さんの施工技術の良否によって、漏水につながったということですね。
落合 ですから技能者競技会の施工、組立の中には、これらの管種すべて盛り込まれていたようです。もちろん日頃の努力も必要でしたけれど、競技会で上位に入ることは本当に難しいことだったと思います。技能者競技会で上位に入賞することは会社としても名誉で、その会社の技術レベルが評価される場となりました。昭和40年代が一番盛り上がったのではないかと思いますね。
佐藤 そうですね。話しによりますと大会近くなると仕事をさせずに練習に励んだ会社もあるとか。仕事が終わってから徹夜で練習した人もいたということを聞きましたね。
安田 主催が役所でしたから、会社の人が上位入賞すると会社の評価が変わりますからね。
「指定工事店の変遷」
落合 今日まで旭川市の指定工事店制度、種々変化があったと思いますが。
北岸 これ迄の話しで旭川市の指定工事店制度は昭和28年からですが、この指定工事店制度はあくまで上水ですね。
落含 そうです。旭川市の下水処理運転開始は昭和39年11月となっていますから。あくまで上水の指定店としてスタートしておりますが、下水道の普及に伴って上水の指定店とは別に、排水設備工事に携わる業者、排水工事登録店ができ、年間水洗工事をある一定の件数を施工していなければ登録から抹消されるという制度がとられていました。当時の制度は、一軒の家の上下水道工事に、上と下の別々の業者が施工に来たということですね。下水道が始まったのが遅かったこともあり、上水の工事店は10社程度に対し、排水工事店登録店が30社以上ありましたからね。排水工事が先行し、水道工事店が来るのを待っていたということも多かったようですよ。
成田 この時代には、上水道の業者と排水業者は別々にスタ-トしましたが、中には上水の業者が排水の資格をとっている業者もおりましたね。
落合 市民側から見れば、掘削の場所が給排水同じラインでありながら同時に施工できないなど、またそれによって工事価格に変わりますからね、不都合もあったと思います。それで、後に工事価格的にも問題があるとして給水排水工事が同時にできるよう、排水設備工事店規程ができた。昭和48年頃だったと思いますが、排水設備工事店は給水工事の指定を受けていることが条件になりました。
安田 昭和49年頃だったと思いますが、排水設備工事からスタートした多くの業者が組合に加入したため、10社程度の組合員が25社に増えたのですね。
落合 この頃の指定店は、複雑で排水設備工事から給水の資格を取得したが、資格者が少なく、また経験も少ないことから、資格者の人数、経験年数等から、1種から3種までのランクを設けていた時代もありましたね。その1種から3種までの内容はどのようになっていたのですか。
北岸 それは、給水管ロ径で区分していたと思います。1種はすべてのロ径が施工できる、工種も新設、改造、排水すべて可能。2種は口径25mm迄、3種は改造工事に伴う給・排水工事と分けていたと思います。
落合 当時の給水、排水工事費の扱いについては、給水工事費の扱いは役所が設計し、お客さんが工事費を納めて工事に着工し完了後、役所が精算し業者に支払われる制度。これが受託工事制度で・平成元年迄続いたものです。
佐藤 この受託工事制度廃止後は民・民契約となり、役所は設計審査と完了検査のみに移ったのですね。
落合 民・民契約に移行する前から調査設計は業者がすることを認めていたと思いますが。
安田 業者の調査設計は、一部の責任業者に限り、昭和40年代後半から認めていたと思います。
酒井 組合でも給・排水工事の忙しい時代、昭和50年頃に設計センタ-を設置した時期がありましたね。何年くらい続いたのですか。
安田 財団法人旭川市水道協会ができたのが昭和55年ですから、役5年間続いたと思います。
落合 一方、下水道、排水設備工事の取扱いは工事スタートのときから民・民契約でしたね。
成田 排水設備工事はスタートしたときから私人間契約ですから役所は審査・検査ををやり設計・施工はすべて業者が行っていました。
落合 話しは変わりますが旭川は北海道でも特に寒い地域であり、いろいろ寒波など苦労話や、思い出も多いと思いますが、その話に移りたいと思います。
安田 寒波の話しといえば、昭和51年、52年の異常寒波は皆さんも記憶にあると思いますが、マイナス20度以下が何日も続き、真冬日が51日間続いたと記録されておりますね。寒波による水道凍結が何千件も発生し、その日のうちに処理できず、翌日になる家屋も相当あったと思いますね。
北岸 夜遅くなることも数日続き、朝方まで凍結修理に回ったことも覚えておりますよ。当時、一般家庭でも公道分の給水管が地下凍結し、地下凍結解氷に業界も忙しい目にあいましたよ。水が出ないといえば、地下凍結アレルギ一になりましたね。
浦 公道分の給水管凍結といえば、本管の地下凍結があったこともおぼえていますよ。
佐藤 一般家庭の公道分は給水管が小口径で夜、水を使わないからすぐしばれる。
落含 そうですね。道路も路面カットされ、舗装されたり、埋設深度も浅くなっていたり、更に除雪が行き届いていることも、本管、給水管の地下凍結の多発につながったと思いますね。
佐藤 この昭和51年、52年の異常寒波で埋設深度の見直しになったと思います。
安田 そう、この地下凍結で冬期間解氷後、夜間放水・することから年間の給水量が夏場の最大を上回る結果が出たそうです。配水本管と給水管の公道埋設深度も昭和53年~54年に見直しされ、深度が1.2mから1.4mなったのですね。
酒井 従来の本管に分水するとき防寒工法を施すこともこの頃からですね。
落合 ところで昔と違い、一般家庭の凍結件数が少なくなっておりますが。
成田 そうですね。まず、昔と違い建物、建築様式が変わってきたことが原因でしょうね。昔の貯留式の不凍給水栓は使用後、自動的に地下に水が落ちる訳ですから問題はなかったけれど、建物も代わり台所まわり、流しに蛇口が数個、湯沸かし器などの普及で台所に一本の不凍給水栓から耐寒止水、水抜栓に代わりましたね。一方、建物も以前のつか石から基礎になり更に立上り管に防寒工法を採り入れらたことも減少につながったと思います。また一方では、室内の暖房も24時間切らないようになったこともあると思います。
落合 旭川の埋設深度が、公道1.4mと深い方であると思いますが。
安田 道内でも旭川は寒い方ではありますが、帯広、釧路などではまだ深いようですよ。帯広で1.5m、釧路では1.6mと聞いておりますよ。
佐藤 この地方は積雪が無く、気温が下がることが凍結深度が深くなる原因と聞きますね。いずれにしても、埋設深度が深くなることは維持管理が大変だということです。
落合 最近、全国的に地震が多いですが、阪神淡路大震災の水道復旧支援について、数社が行かれたと思いますが、水道と災害についての話しに触れたいと思います。
成田 神戸の地震は平成7年1月、震度7で水道施設、給水施設にも大きな被害が出ましたからね。
安田 そのときは全管連、道管連から応援要請があって対応したと思います。
落合 当時の応援体制と規模はどの程度のものでしたか。
北岸 実際、応援に行ったのは6社各2名で、12名が神戸に行かれたのですね。それと機材ではトラック4台、掘削機1台、ボンゴ車1台と思います。
落合 一度に全員行かれたのではなく、2回に分かれて行かれたと思いますが。
安田 確か同じ人が長期間滞在することは、生活も大変と聞き6名が交替で2月12日から約1週間ずつ支援を行ったものでト水道局からも4名が交替で行かれましたね。支援の内容は、漏水調査班と配水管及び給水の復旧班に分かれて作業に当たったと聞いております。
落合 神戸迄の経路と機材の搬送はどのようにしたのですか。
安田 当初は機材の搬送もあることから小樽からフェリ-で敦賀まで、それから高速で神戸に入ったようです。第2陣は、空路で行ったと思います。
佐藤 支援に行った人の話しでは、宿泊先が水道局の資材庫と思われる所であったようです。風呂はあったようですが、一週間の生活は大変だったようです。もちろん被災地ですからね。
成田 神戸の給水管はすべて塩ビ管で、埋設も露出配管も災害には比較的弱い材質のため被害も大きくなったのでしょう。
北岸 作業に当たっても、とにかく道路が家屋の倒壊で狭く大きなトラックは走れなかったようです。復旧が遅れる要因になったと思います。現地では水の使用ができなくなって初めて水の大切さが分かり、感謝されたそうですよ。現場で一番活躍したのはバイク隊と聞きましたからね。
浦 いずれにしても近年、神戸や新潟などで大きな地震が発生しておりますし、旭川は地震が少ないが、今後大きな地震が発生しないという保障はない訳でしょう。
落含 そうですね。発生が少ない、発生しないとして地震対策に取り組まないとしたら、いざ発生した場合、被害は大きくなることは目に見えていますね。
佐藤 発生する前に取り組んでこそ、被害を最小限にくい止めることができると思います。
落合 ところで旭川市の水道施設で地震等で特に問題となる材質、石綿管、塩ビ管などは、まだどの程度残っているのかな。
安田 石綿管は、数年前にすべて布設替されたそうですが、塩ビ管で約800km、そのうち300kmのTS継手が残っていると聞いておりますね。遅れていることはわかっているけど、予算の関係もあり、取り組めないのが実態のようです。
成田 一挙にできないのですから、水道であれば耐震継手、災害に備える緊急貯水槽など地震対策に取り組む必要があると思いますね。
落合 今、旭川市もようやく防災センター等、災害に対する取り組む姿勢がでてきたようですね。地震が発生しないから、良いようなものですが、災害対策では避難所も特定したようですが、避難所に一番大切な水の確保も考えなければね。
安田 現在、市の消防で市内に火災時対応する地下水井戸ポンプ700本ぐらい打っていると聞いておりますが、また一時水道局が飲用に適するか水質検査もしたという話しもありますね。
酒井 その目的は災害時活用できるかどうか判断するためでしょうね。
落合 災害時には、水洗トイレなどの雑用水にも利用可能ですからね。日頃、無意識に使っているのが水で、無くなって初めてわかるのが水の大切さ、空気と同じですよ。
落合 最後に今の指定店制度、特に平成8年の規制緩和についてはどうですか。平成8年の規制緩和により旭川市の指定店も30社から現在で約80社、札幌でも300から500社くらい大幅に増えている現状の中、指定店たる要件が国が決め、端的にいえば、主任技術者がいれば指定店を取れる制度で、この規制緩和は業界にとっていろいろ影響が出てきていると思いますが。
浦 国が種々の背景のもとに行った規制緩和ですからね。私共が規制緩和に対しどうのこうのいうことにはならないと思いますが。
落合 ただ規制緩和後の実態としては、指定店は取得するが実際は名前だけで仕事はやらない、対外的に指定店を取ることにより都合が良いということで指定を受けている業者が参入しております。市民から仕事はとるが、実態は工事をする指定店に回している。例えばある会社がそのような指定店から依頼を受け、市民の所に訪問すると「私はあなたの会社に頼んでいない。」という話もある。
成田 弊害のひとつでしょうね。市の指定店は、やはり市民の信頼を受ける指定店でなければ増える意味がない訳で増えるのは結構ですが、アフターもしっかりする、工事もやり放しで後は知らないという業者がいくら増えても意味はない。
浦 国が指定する要件ですから、私共が要件について触れることはさけるとしても指定店が市民の信頼を損なう行為をした場合、即、指定を取り消すことができる条文等があっても良いと思いますね。
佐藤 この規制緩和について一言いわせてもらいますと、指定要件は国家資格の主任技術者がいることとされていますが、従来の日水協資格の配管工の位置付けがないことですね。
落合 確かに主任技術者にすべての責任をもたせておりますが、実際、現場施工に携わる者の位置付けがないですね。実際、人の口に入る水ですから誰が施工しても良いと言う考えは果たしてどうかと思いますね。
佐藤 もう一つは、実際仕事が出来る体制がないところでも指定を受けられる制度といえる点ですね。それは、配管工何名という位置付けがないことにより、施工体制のない指定業者が増えた結果ともいえるのではないでしょうか。配管工もいない、掘削機械もない現状で。規制緩和になる迄は日水協の1級、2級と長年試験制度を実施してきた制度が全て無視されたようなものですね。
安田 このことについては日水協を含めた全管連及び道管連は、配管工の位置付けを強く厚生労働省に申し入れているようです。規制緩和からもう10年近くになるので、早急に再度、要望して行くことを道管連の集まりで報告されております。
成田 やはり市民から信頼を受ける指定店ということは、配管工の位置付けを明確にして、施工に実際に携わる配管工を明確にすることによって市民側から信頼のおける指定店になっていくのではないか。施工は関係ないといえないですよ。人の口に入る水ですからね。
浦 一つ疑問があるのは、何故、水道の配管工を国家資格にできないのでしょうか?建築の配管技能士とか種々の国家資格はあると思いますが、今、同業種の中で多種の資格を設けていますが、統一すべきではないかと思いますね。今の制度では市民はどこの指定業者が信頼のおける業者か分からない。市が認めた指定業者なら間違いはないだろうと依頼する。名簿を見てね。そうすると、当社は工事はしていないという返事がくる。市民が依頼しても出来ない業者は出来ない。結局、他の指定店に頼むことになる。そこが制度の悪い部分ですね。
落合 端的にいうと主任技術者が一人いれば、誰でも指定店になれる制度自体に問題があるともいえますね。
安田 主任技術者という国家資格があれば誰でも指定を受けられる制度自体に問題があると思いますよ。この資格も更新制度もないし言い過ぎかもしれませんが、現場も知らず資格を持っている人もいるようですから、ペーパードライバーと同じ様なものかも知れませんね。
酒井 できるものなら規制緩和して10年近くになるのですから、厚生労働省も全管連、日水協など業界の声に耳を傾けてほしいものですね。
落合 市民のライフラインというのは水道・ガス・電気・電話など種々ありますけれど、工事指定店という制度、協同組合という制度は市民の水を守っていく使命を担っている組織として、指定店は数多くあると思いますが、こういう組合がその任に位置付けられているのではないでしょうか。指定店も規制緩和で数多く増えましたが、災害事故等で水道施設に大きな事故が発生した場合、いかにそれに対応できるか、組合を挙げて対応するということになりますよね。
安田 そうです。それがこの組合組織ではないかと思いますね。ライフラインを守る1つの組織として組合も自覚し、平成14年の9月に水道局と災害時における応急給水と復旧に関する協定を締結しておりますね。この締結で局も組合もお互い市民の水を守る認識が確立された訳ですよ。
佐藤 指定店も80社程ありますが、何か事故があった時、局がその都度各社に連絡し、対応をお願いすることば現実に難しいことですからね。一つの組織で体制を整えてもらうことにより、迅速な対応が可能になる訳ですからね。昔の水道屋さんというイメージは、変わって来てますね。
安田 市民生活に直結する水、水道が24時間休むことなく1年365日送り続けている。水道事業の使命の一役をこの組合が担っていることを使用者である市民に徐々に理解されてきていると思いますし、水道事業体もこの組合組織の存在感というものも、ようやく理解されてきたのではないかと思いますよ。
北岸 休日も夜間も24時間、不慮の事故やトラブルに備えて待機し、発生時に対処している訳ですから、単なるお金の問題だけでなく、水道に携わる者として組合組織としての使命感を持っているからでしょうね。
浦 しかし、まだ分かっていない市民も数多くおられると思いますよ。我々水道工事店が365日の当番制をとり携わっていることを。そういう意味でももう少し分かってもらうように、PRしなければ。
安田 でも、昨年あたりから市民の相談窓口となる組合の水道サービスセンターに入る電話も急激に増えておりますから、市民サービスの向上につながる組合の存在感も、少しづつ市民にアピ-ルされてきていると思います。
落合 以前は水道局職員の中に長年の現場経験者が多数おられ、事故等にも即対応されておりますが、最近、定年や市の人事異動で他部局へ異動するなどで少なくなりましたね。
成田 これは時代の流れですから止むを得ないと思いますが、それだけに組合の組織強化が必要となり、頼れる組合になっていかなければと思うね。これからの組合は組合員に頼れる組織、組合に入っていて良かったなといわれる組合にならなければならないし、市民や水道局からの信頼を得る組織で右腕や片腕となっていかなければならないという意識が組合側にもようやく出てきたようですね。
司会:落合 将来的にも我々が今、組合組織をしっかり確立し、次代を担う若者へ青年部会に安心して引き継ぎができる、任せられるようにしていきたいですね。
佐藤 そうですね。水は切らすことができないもので子や孫の代になろうとも将来続いていくもので、次の時代のことを考えて引き継いでいかなければと思います。今が大事ということですね。
落合 最後になりますが、組合もこれから必要とされる種々の資格を取得し、市民や、水道局からの絶対的な信頼を得られるよう組織力を強化し、組合事業の拡大をはかって、組合運営も組合員からの賦課金をとらない組織を目指すなど、今後はより一層、組合会員同士の結束力を固め、組合の目標である共同受注の拡大に向け、皆さんと共に取り組んでまいりたいと思います。
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